大型放射光施設 SPring-8

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いまだ謎多き水分子の世界  -その意外な構造と運動様態の秘密に迫る-

なんでいまさら水の構造研究なのか?

 水はとても身近な存在で、H2Oというそのシンプルな分子構造は中高生にもよく知られています。そんな水の様態に未解明の謎があるなどとは、ほとんどの人が想像さえしていないことでしょう。でもそれは紛れもない事実なのです。科学研究とは未知の新奇な事象を対象とするものだと考えられがちなのですが、水や氷のようなごくありふれた事物の奥に潜む謎を見出し、その解明を試みることも実は科学研究の重要な仕事なのです。SPring-8のような世界最先端の光科学研究施設で水の構造研究が進められているというと、とても意外な印象を抱かれるかもしれません。でも、それには相応の深い背景があるのです。皆さんは、「とても大きな氷の冷熱(ものを冷やす力)がどこに蓄えられているのか?」とか、「水の密度が4°Cで最大になり、それより温度が高くても低くても密度が小さくなるのはなぜなのか?」とか、「固体の氷のほうが液体の水より密度が小さい理由は?」とかいった疑問をもったことはありませんか。実を言うと、これらの疑問に答えるには今なお論争が続いている水の構造解明が不可欠なのです。近年、SPring-8でも水や氷の構造解析が進められ、長年の論争決着の鍵になりそうな新事実が幾つも発見されてきています。

水分子に特有な水素結合とは?

 酸素原子の外側の電子軌道には6個の電子が、また、水素原子の電子軌道には1個の電子が入っています(図1参照)。酸素原子1個に水素原子2個が結合し水分子H2Oをつくる場合、それぞれの水素原子は、なけなしの電子1個を酸素の電子軌道に供与するかわりに、酸素からも自分の電子軌道に電子1個を供与してもらい、互いにしっかりと結び付きます。水素原子はその電子軌道に2個、酸素原子は外側の軌道に8個の電子が入った状態になると安定する特別な性質があるため、「共有結合」と呼ばれる水素2個と酸素1個の強い結び付きが起こるのです。相互に電子を貸し借りし、帳尻の合う密な関係を形成しているわけです。
 ところで、個々が独立し安定的に存在するはずの水分子が、なぜ氷のような固体の結晶になったり、4°Cで最大密度をもつ液体となったりするのでしょう。その謎を解く鍵は「水素結合」という水分子間の特殊な相互吸引メカニズムにあると考えられています。水分子の水素原子2個の電子は酸素との共有結合部分に引き寄せられるため、水素原子の共有結合部の反対側は弱い正電荷(プラスの電気)を帯び、一方、酸素原子の外側電子軌道の残り4個の電子(共有結合部の2個以外の電子)は、2組の孤立した電子対をなして負電荷(マイナスの電気)を帯びます(図2参照)。そのため、水分子の正電荷を帯びた2箇所の水素原子端部には他の2個の水分子の負電荷部分(孤立電子対部分)が、また逆に負電荷を帯びた2箇所の孤立電子対部分には他の2個の水分子の水素原子端部が引き付けられることになります。それが水素結合(図3参照)と呼ばれるもので、その結合力は共有結合の10分の1程度だと考えられています。
 この水素結合のメカニズムにより1個の水分子はその周りに4個の水分子を引き寄せます。正4面体の各頂点とその中心とに合計5個の水分子が位置する構図を想像してみてください。この基本構造が規則的に重なって形成された結晶体が氷というわけなのです。これまで氷中のH2O分子相互の結合状態やその機能の直接観測は困難だったので、コンピュータ上で仮想原子間の相互作用やそのメカニズムを推定する分子動力学シミュレーションを用い、その解明が行われてきました。しかし、最近、SPring-8の高エネルギー非弾性散乱ビームライン(BL08W)でのコンプトン散乱法を用いた高精度実験により、直接的な氷の構造・機能の観測に成功し、分子動力学シミュレーションの予想を裏付けることができました。
 コンプトン散乱法とは、X線の粒子(光子)が電子と衝突し散乱する前と後のエネルギー差を解析し、研究対象の分子や原子がもつ電子の運動様態を調べる手法です。この一連の研究により、氷のもつ冷熱エネルギーの一部は低温になるほど水分子の結合力が強まるネットワーク構造中に蓄えられ、残りの一部が分子の振動エネルギーとして蓄えられることが明らかになりました。今後の蓄熱材料開発や新物質の蓄熱特性の解明に貢献すると思われるこの基礎研究は、米国の一流科学誌でも紹介されました。

図1.水素原子と酸素原子の模式図

図1.水素原子と酸素原子の模式図
図2.水分子および共有結合の模式図

図2.水分子および共有結合の模式図
図3.水の4つの水素結合の模式図

図3.水の4つの水素結合の模式図

酸素や窒素など、電子をひきつけやすい原子と共有結合した水素原子は電子を引っ張られて弱い正電荷を帯び、隣接原子の持つ負電荷との間に共有結合の10分の1程度の弱い結合を生じる。これを水素結合と呼ぶ。水分子の場合、酸素原子のもつ6つの価電子のうち、2つの電子が2つのOH結合に関与して、残りの4つが2組の孤立電子対となり、隣接する水分子と合計で4つの水素結合を作ることができる。

なんとも不思議な水の構造

 X線の発見者で、第1回のノーベル賞受賞者でもあるレントゲンは、1892年に「水は氷によく似た構造と未知の構造との2つが混ざってできている」というモデルを提唱しました。しかし、1933年になると、ケンブリッジ大学の教授らが、水のX線回折データをもとに、「水は正4面体の各頂点とその中心にH2O分子が配された氷の構造が連続的にゆがんでできている」という理論モデルを提示しました。このモデルは、その後の様々な分光学的解析や、1980年以降急速に高性能化したコンピュータによる3次元分子動力学シミュレーションの結果、決定的とは言えないまでも、多くの研究者から支持されるようになっていました。
 2008年のこと、理研の徳島高・研究員らは、SPring-8の理研物理科学IIIビームライン(BL17SU)の高輝度軟X線と、軟X線の透過度が高く強度もある厚さ150nmの薄膜を窓材に用いた新開発の特殊試料容器(液体フローセル)を配備した分解能世界一の軟X線発光分光装置により水の構造解析を行いました。軟X線を照射して水素と共有結合している酸素原子の内側軌道の電子を弾き出すと、それによって電子が空位になった正電荷部分(正孔)を補うために、外側の軌道にある電子1個が内側に移動します。その時に外側軌道の電子と内側軌道の電子の保有エネルギーの差に相当するエネルギーが軟X線となって放出されるので、放出された軟X線のエネルギーの分布(エネルギースペクトル)の違いを調べれば、孤立電子対の様態がわかります。これが軟X線発光分光による水の構造解析の原理です(図4参照)。この方法で液体の水の軟X線発光スペクトルを調べてみると、水素結合に関係している孤立電子対のピークが2つに分かれていることがわかりました(図5参照)。この事実
は水素結合の仕方の異なる2種類の状態が水の中には同時に存在することを示唆しているのです。さらに厳密な検証を進めるため、物質にX線を照射した時に生じる散乱角度の小さなX線の散乱パターンを分析し微細な構造を観察する手法(X線小角散乱分析法)や、電子が入っていない分子軌道を観測するX線ラマン散乱法などを用いて、別角度からも水の構造解析が行われました。
 そのデータに基づく「水の構造イメージ」は実に意外なものでした。秩序的な氷の構造が連続的に徐々にゆがんで均一な構造の水になっているという従来のモデルと異なり、水には比較的大きな密度の不均一性(濃淡)がある、つまり、「氷によく似た秩序構造(低密度)」が「水素結合の腕が大きく切れゆがんだ水分子の海(高密度)」の中に散在した「水玉模様のような微細構造」(図5参照)をしているというのです。また、その不均一性は高温だと目立たなくなり、低温だと顕著になることもわかりました。レントゲンが提唱したモデルへと話が回帰してしまうこの研究結果が米国の科学誌に掲載されると、分子動力学シミュレーション上の最新モデルにも修正が必要だとの意見が高まり、現在もその議論が続いています。水より氷の密度が低いことや水の密度が4°Cで最大になることは、分子間の距離や一つの分子を取り囲む平均的な他分子の数(配置数という)などの観点からなんとか説明がつくようになりそうです。ただ、水のもつ2様態の相互変化が常時どのくらいの瞬間速度で起こっているのか、物質が溶けたときその変化はどうなるのかなど、わからないことはなお多く、水の不思議を完全解明するための課題が尽きることはありません。
 意外に思われるかもしれませんが、物質が水に溶けるメカニズム、生物の体内での水の働き、化学反応における水の役割などを解明するには、一連の水の基礎研究が不可欠なのです。たとえば、各種のイオン水を含む生物細胞の機能解明には、水の構造や関連電子の状態の完全な把握が大前提となるのです。そのため、水の基礎研究で世界をリードするSPring-8への期待はますます大きくなってきています。

図4.軟X線発光分光の模式図

図4.軟X線発光分光の模式図
図5.これまでの軟X線発光、X線小角散乱、X線ラマン散乱の実験データをもとに作成した想像

図5.これまでの軟X線発光、X線小角散乱、X線ラマン散乱の実験データをもとに作成した想像

(左図)室温の水(H2O)の発光スペクトルの解析によって得た2つの異なる様態を示すデータ曲線に、新たな実験で発見された「水素結合が切れゆがんだ水分子群」と「氷によく似た微細構造」とを対応させ、その関係を図示したもの。
(右図)水の構造の違いを色で表した図。実際には3次元の構造であるが平面図に単純化してある。水の温度が上昇すると、高密度成分の密度が小さくなり低密度成分に近づくため、水玉状の密度の濃淡が小さくなり、X線小角散乱による観測では両成分の差が見えにくくなる。この構造は1~2ピコ秒(ピコ=1兆分の1)で組み替わる水素結合によって常時変化しているが、軟X線発光、X線小角散乱、X線ラマン散乱などのような、水素結合の変化よりも速いフェムト秒(フェムト=1000兆分の1)以下の情報を観測できる方法を使うと、常にこのような構造の違いが検出されると考えられる。


取材・文:本田 成親