大型放射光施設 SPring-8

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水素燃料電池研究のためのビームラインを開発 ―SPring-8だからできた世界唯一の計測システム―

水素燃料電池研究のためのビームラインを開発―SPring-8だからできた世界唯一の計測システム―

日本がトップを走る水素燃料電池の開発

 水素と酸素から電気を作り出し、水だけを排出する「水素燃料電池」は、次世代のクリーンなエネルギーとして世界中から注目されています。日本では早い時期から、国と企業と研究機関が連携して、水素燃料電池の研究開発に取り組んできました。その甲斐もあって、2009年には家庭用燃料電池「エネファーム」を、そして2014年には燃料電池で動く乗用車「MIRAI」を世界に先駆けて市販することができました。現在もなお、燃料電池の技術開発においては、日本が世界のトップを走り続けています。
 大きな電力を供給できる燃料電池は、自然災害時の家庭や避難所などの非常電源としても期待されており、自然災害多発の我が国にとってエネルギーセキュリティの観点からもとても重要な発電装置でもあります。燃料電池を製造することで、これまでにない新しい産業が発展し、日本の国力強化にもつながります。さらに、燃料電池の材料となる水素は、さまざまな方法で作り出すことができます。燃料電池の開発は、資源の少ない日本がエネルギーの自給自足を目指すうえでも重要なのです。また、温室効果ガスをほとんど排出しない水素燃料電池が普及すれば、地球の温暖化を抑制できるかもしれません。
 電気通信大学燃料電池・水素イノベーション研究センター センター長・特任教授の岩澤康裕さんは、燃料電池と触媒研究のエキスパートです。長い間、東京大学理学系研究科で触媒の基礎研究を行っていた岩澤さんが燃料電池の研究を始めたのは、トヨタ自動車の研究者から共同研究をもちかけられたことがきっかけでした。
 「トヨタで最先端の材料開発をしている研究グループから、燃料電池の中の触媒で何が起こっているのかを計測できないかと相談されたのです。燃料電池自動車をどうしても実用化したいというトヨタの研究者の熱意と知識に感心して、共同研究を始めることになりました。研究室のスタッフの唯美津木さん(現在は名古屋大学の教授)に興味がないかと聞いたら、即答でやってくれることになりました。私も唯さんも、トヨタの方々に教えてもらいながら、燃料電池の研究を始めたのです。トヨタとの共同研究が終了した後は本田技研工業とも新たな視点での共同研究を始めました」
 2010年からは、産学官が連携する国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)プログラムが始まりました。岩澤さんは、SPring-8に燃料電池の研究開発のためのビームラインBL36XUを建造するプロジェクトの中心となり、計画を進めていくことになったのです。

図1

図1 実際の燃料電池セルの写真(左上)、構造の概略図(下)
と膜電極接合体の模式図(右上)

触媒反応の「現場」を押さえる

 燃料電池は「電池」という名前がついていますが、乾電池のように中に電気をためるものではありません。水素と酸素を化学反応させて直接電気を作る、電池というよりは小さな発電所のような装置です(表紙イラスト参照)。そんな燃料電池の研究開発に、なぜSPring-8が必要だったのでしょうか。岩澤さんは次のように語ります。
 「燃料電池を実社会に普及させるためには、発電効率を高め、耐久性を増し、コストを削減し、安全性をしっかりと確かめなくてはなりません。そのような燃料電池を開発するためには多くの研究が必要です。燃料電池の反応は金属の枠板に挟まれたスタック構造の中の薄い膜電極上で起こるため、調べることが困難で、長い間ブラックボックスのままでした(図1)。SPring-8の安定性の高い高強度の放射光を用いることができれば、燃料電池内部の隠された反応の様子を知ることができると考えたのです」
 燃料電池セルを分解して膜電極を外に取り出して調べるのであれば、SPring-8を使う必要はありません。しかしそれでは、実際の燃料電池で起こる本当の現象をとらえることができません。岩澤さんたちは、反応の「現場」を押さえることにこだわりました。触媒の反応は、水が存在する膜電極中の空間の複雑な環境で起こるため、X線吸収微細構造(XAFS)法というX線計測手法を、時間と空間での両方の解析に用いることができるようにしました。さらに「現場」を押さえるこだわりは、発電中の電池を測定すると同時に複数の指標を計測できる同視野マルチ計測システムの開発にもつながりました。
 「電池の化学反応現象は非常に複雑です。同じ電池でも測定する場所や条件が少しでも変わると、違う現象を計測してしまうことがあります。たとえば、X線で計測をしたあとに別の機器に試料を移動して、時間が経過してしまった後で他の指標を計測するといった方法では、正しい現象は見えません。私たちは、試料を動かさず、放射光のビームを当てながら複数の項目を同時あるいは同時系列で測定できるシステムを開発しました(表1および詳細は5ページ「実験技術紹介 利用者のみなさまへ」参照)。これは世界に例のない、燃料電池に特化したオペランド(作用下のその場観察)マルチ計測システムです。世界初および世界最高性能の基盤技術が多数散りばめられています」
 2010年から始まったNEDOプログラムで建設したBL36XUは、2013年から利用開始になりました。さらに2015-2019年度のNEDOプログラムでは、X AFSに加えて、他のX線計測技術を組み合わせて反応を測定できるシステムを構築しました。2020年からは、また新たなNEDOプログラムが始まり、測定システムの開発だけでなく、得られたデータを提供してシミュレータ開発や材料開発に活かすための研究を進めています。

表1

表1 BL36XUで開発されたオペランド(作用下のその場観察)放射光分析手法の一覧

燃料電池開発に必要な3つのプロセスを明らかに

 岩澤さんたちがBL36XUを利用して知りたかったことは、大きくわけて3つありました。1つ目は膜電極上で起きている触媒反応を可視化することです。「燃料電池を実社会で普及させるためには、電極触媒がどう作用して、どのように働いているのかを知ることが重要です。触媒の様子がわからないと、効果的に設計したり改良したりすることができないからです。しかし、その過程はブラックボックスになっていて、リアルタイムで構造変化の計測や空間的な可視化を行った人はいませんでした」
 2つ目は劣化のプロセスの解明です。触媒は使っているうちに劣化して、反応の様子も変わっていきます。触媒のどの部分がどう変化し、変化した場所がどのような分布をしているのかを知ることで、劣化しにくい電池の開発や、劣化による事故を防ぐ安全対策につながります。
 3つ目は燃料電池が空気中に漂う硫黄などの汚染物質を吸着してしまい、触媒が変化する「被毒」という現象の解明です。トンネルや温泉地などでは、二酸化硫黄のような気体が空気中に存在しています。被毒のメカニズムと被毒回復現象を知ることも、燃料電池の実用化と本格普及には必要です。
 岩澤さんたちは、BL36XUのマルチ計測システムを用いることで、このような現象の詳細を世界で初めて明らかにすることができました。
 「現在の燃料電池はまだ他の科学技術の代替となるレベルに到達していません。燃料電池の性能を増大させ、耐久性を大幅に向上させ、低コスト化を行うためには革新的なブレイクスルーが必要です。燃料電池の反応を時間、空間、エネルギーの視点から直接調べることができる計測機器は、SPring-8にあるこのシステムだけです。SPring-8が日本にあって、我が国の学術界だけでなく日本の産業界が利用できるというのは、世界の燃料電池開発競争において、非常に大きなアドバンテージになると思います」


コラム

岩澤さん 岩澤さんたちが構築したBL36XUは、現在もなお、燃料電池の開発において、世界で唯一かつ最高性能のビームラインです。しかし、岩澤さんはSPring-8もさらに進化する必要があると言います。
 「燃料電池が今の技術に代わるくらいに普及するためには、これまで1時間かけて計測していたのが1秒で計測できるようになる、または、1 μmで可視化していたのが10 nmレベルで出来るといった、劇的な進歩が必要です。燃料電池に限らず将来のカーボンニュートラルに必要な多くの材料開発のために、さらに高性能な次世代のSPring8-IIをぜひ作っていただきたいですね」
 研究者人生の途中から企業と一緒に燃料電池という応用研究を行ってきた岩澤さん。電気通信大学に移ってからは、研究時間のほとんどを燃料電池にあてているそうです。
 「燃料電池は難しいです。でも、面白いんですよね。企業と一緒に応用研究をしていると、研究の『出口』を考えるようになりました。それまでは、出口というよりは、触媒科学と表面科学を基礎にして自分の好奇心で世界初のやりたいことをやっていて、出口を考えるのは私たちではなく、応用分野の研究者や産業界だと考えがちでした」
 基礎研究者も課題の出口を考えて、出口を見通す楽しさを感じながら基礎研究をしていってもいいのではないかと岩澤さんは話します。
 「ただし、2年後、3年後といった短期課題の出口を考えているばかりでは、出口ではなく、ただの非常口や避難口になってしまいます。そうではなく、長期的、自由で創造的な発想による夢の出口を、基礎研究者は見据えていけたらいいのかなと考えています」

文:チーム・パスカル 寒竹 泉美


この記事は、電気通信大学燃料電池・水素イノベーション研究センター センター長・特任教授 岩澤康裕さんにインタビューして構成しました。