大型放射光施設 SPring-8

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ファンデルワールス力のメカニズムを分子レベルで解明 第一原理計算とSPring-8の合わせ技で結晶を作らない材料の構造を明らかにする

ファンデルワールス力のメカニズムを分子レベルで解明
第一原理計算とSPring-8の合わせ技で結晶を作らない材料の構造を明らかにする

計算と測定で分子の姿を明らかにする

 私たちの周りには目に見えない力がいろいろ働いています。例えば重力や磁力です。物質と物質が引かれあったり反発しあったりする力は、物質の状態を決めるのに重要な役割を担っています。
 小さな分子や原子の間にも複数の異なる力が働いています。“どのような条件”のときに“どのような力”が働くのかは、小さな物質(量子)間の力を考える「量子力学」という学問分野で研究されています。その量子力学の基本原理(第一原理)を元に原子や分子の間に働く力を全てコンピューターで計算すれば、分子中の原子の位置、結合や電子の状態などを導き出すことができます。このような計算を「第一原理計算」といいます。
 第一原理計算はシミュレーションの一種ですが、実際の測定値を使わないという特徴があります。たとえば、天気予報は気温、気圧、湿度、風速などの測定データをもとに計算を行い、未来の天気を予測するシミュレーションです。しかし、第一原理計算では実際の物質の測定データは使わずに、分子の形や状態を入力することで、その分子が“どのようなふるまい”をするかを予測します。分子の形や状態がわかれば、その分子を使った材料が“どのような性質”を持つかを予測することもできますし、逆に第一原理計算で予測したデータと、実験による測定で得られた分子のふるまいを示すデータを照らし合わせることで、分子の構造を詳細に知ることもできるのです(図1)。

図1

図1 第一原理計算に基づく予測と実験で得たスペクトルを比較して分子の状態を知る

拒絶反応を起こしにくい秘密を探る

 東北大学の高橋まさえさんは、第一原理計算と実験による測定結果の両方を使って、分子の構造を明らかにする研究を行っています。今回SPring-8 NEWSで紹介するのは、2 −メタクリロイルオキシエチルホスホリルコリン(MPC)と呼ばれる物質についての研究成果です。
 MPCは様々な分野で注目されている物質ですが、特に医療現場で用いられる「生体適合性材料」として有望です。生体適合性材料とは、体内に入れても拒絶反応を起こしにくい材料のことです。私たちの体は、異物が入ってくると拒絶反応を起こします。治療のために体の一部を人工物に置き換える場合には、異物に対する反応を防ぐ必要があります。MPCはすでに実用化されており、人工股関節の表面のコーティングやコンタクトレンズ、人工血管などに使われています。
 このような機能の鍵となるのが、MPCと周りの水分子との間に働く弱い力だと高橋さんは説明します。この力は温度によって変化するため、MPCの構造も温度変化によって変わると考えられています。しかし、分子中の“どの位置の結合”が“どのように変化”するのかといった詳細は、まだわかっていませんでした。MPC分子の性質をより詳しく知ることができたら、さらに生体に適した材料を開発できるかもしれません。

SPring-8の赤外光で微量の試料を分析

 高橋さんたちはSPring-8の赤外顕微分光ステーションであるビームラインBL43IRを使って、赤外分光法でMPC分子の構造を調べました。赤外分光法は、物質に赤外線を照射し、透過または反射した光を分析して、光の波長や単位長さあたりの波の個数(波数)ごとに吸光度をプロットしたグラフ(スペクトル)を得る手法です。スペクトルは物質固有の指紋のようなもので、分子の構造を知るための大きな手掛かりになります。
 赤外顕微分光ステーションでは、顕微鏡とSPring-8の高輝度な赤外放射光とを組み合わせることで、非常に小さな試料の測定を行うことができます。MPCのスペクトルを正確に測定するために、「SPring-8は重要な役割を果たした」と高橋さんは話します。
 「通常の赤外分光法では試料を希釈する必要があるのですが、BL43IRなら純粋なMPCを粉末のまま測定できます。そのおかげで、より元の物質の状態を反映した結果を得られるという利点がありました」
 さらに、BL43IRでは試料の温度も制御できます。高橋さんは複数の温度について、MPCの赤外スペクトルを計測しました(図2)。
 波数250~300 cm-1 のスペクトルに注目すると、MPCは絶対零度に近い4 K(−269 ℃ )のとき、5つのピークが見られますが(青い矢印)、室温に近い298 K(25 ℃)ではピークが3つに減少しています。これは、構造変化が起きていることを示しています。

図2

図2 MPCの赤外顕微分光スペクトル

 さらに、高橋さんは「テラヘルツ光」という波長の長い光を使って、MPCを測定しました。明らかになる分子の特徴は測定に使う光の波長によって異なるため、2つの方法を組み合わせることで、より多くの情報を手に入れることができるのです。
 赤外線とテラヘルツ光の実験結果から、温度が変わるとMPC分子のどこかで水素結合が変化していることが分かりました。
 水素結合は、電子をやり取りしない弱い結合です。その名の通り、水素原子のある所にはすべて、水素結合が発生する可能性があります。また、水素結合は「静電相互作用」と呼ばれる電気的な力や「誘起相互作用」や「分散相互作用」と呼ばれる中性の分子間で起こる力が合わさったもので成り立っていますが、今回の実験から水素結合の中でも中性の分子間で起こる弱い力が関係していることがわかりました。この力は、ファンデルワールス相互作用とも呼ばれます。
 ファンデルワールス相互作用は私たちの身近なところで働いています。たとえば、ヤモリは吸盤で壁に貼りついているわけではなく、指先に非常に細かい毛が生えていて、その毛と壁の間に働くファンデルワールス力によって体重を支えています。他にも細胞内で起きる構造変化に関わっていたり、最先端材料の開発にも重要な役割を果たしていたりします。そのため、SPring-8と第一原理計算の組み合わせでファンデルワールス力を解き明かす手法がさらに発展すれば、さまざまな分野の研究を加速させることになります。

第一原理計算で分子の構造を特定する

 温度の変化で弱い水素結合が変化することが実験でわかりましたが、どの水素結合が変化するのかはまだわかりません。なぜならMPC分子には、複数の水素原子があるため、水素結合ができる箇所は複数あるからです。
 そこで高橋さんたちは、第一原理計算を行って候補を絞り込むことにしました。あらかじめ可能性のある立体構造を全て考え出し、原子に働く力を計算し、安定に存在する形を導き出すと候補は48個に絞られました。次に48個の構造について溶媒の影響を計算に含めて、計算精度の範囲で安定な6つの構造に候補を絞りこみました(図3)。

図3

図3 最終的に絞り込んだMPCの立体構造の候補

 MPC分子は極低温では最も安定な構造をとるため、この6つの候補のどれかが、温度4 K(−269℃)のMPC分子の構造を示している可能性が高くなります。高橋さんたちは、この6つの候補について、それぞれ第一原理計算を用いて計算上の赤外分光スペクトルとテラヘルツ分光スペクトルを導きだし、SPring-8の実験で得られた温度4 K(−269 ℃)のスペクトルと比較しました。その結果、図3中の3の構造を使って計算したスペクトルが最も良く一致することが分かりました。
 さらに高橋さんたちは、物質中での電荷の偏りやすさを示す「誘電率」の影響をとりいれて第一原理計算を行いました。誘電率は温度によって変わりますが、図2の温度によるスペクトルの変化は誘電率で説明できることが分かりました。様々な誘電率の値を用いた計算から、MPC分子は室温では水素結合が切断された状態であることがわかりました。
 「この現象はMPCの性質の特徴を良く表していると考えられます。このような温度の効果を組み入れて設計することで、機能を最大限に発揮できる生体適合性材料の開発につながるのではないかと考えています」
 今後、高橋さんはファンデルワールス力の機構の解明をさらに進めるとともに、第一原理計算による新しい材料の開発の研究も進めていきたいと語ります。
 「地球の地殻で酸素の次にたくさん存在する物質が『ケイ素』です。これを使って新たな二次元材料を作ることも試みています。実験テーマの二刀流ですね」
 2022年にはファンデルワールス力の論文を、2023年にはケイ素材料の理論設計の論文を発表し、文字通り二刀流で成果を出し続けています。今後はどのような分子の姿を明らかにしてくれるのでしょうか。高橋さんのさらなる活躍が楽しみです。


コラム

 研究をやってみたいという想いは子どもの頃から抱いていたと話す高橋さん。
 「でも、誰にも言わずに、スチュワーデスになりたいとか、学校の先生になりたいとか、適当なことを言っていました」
 高橋さんがその想いを初めて口にしたのは、高校3年生のときでした。担任が物理の先生になり、今言わないと後がないと思い立って理科実験室に行ったときのことを、よく覚えていると高橋さんは笑います。
 「東北大学理学部物理学科に進学したいと先生に言うと、大丈夫か? と心配されました。高校は女子高で物理学科に行きたいという人はめずらしかったのです」
 心配しながらも、担任は喜んでくれ、夏休みは物理の実験を教えてくれたのだそうです。
 無事、希望の進路に進み、博士の学位を取得しましたが、物理学の就職先が見つかりませんでした。そのため、化学の研究室、工学、それから農学部へと一見物理とは異なる分野に所属し、農学部を定年退職後にようやく物理学の研究室に戻ってきたと高橋さんは話します。
 「博士研究員として所属した化学の研究室は有機化学が専門だったのですが、物理出身であることを買われて理論計算を任されました。そのうちなぜか、テラヘルツ光を研究している他の研究室の先生から声をかけられて、テラヘルツ光を使った研究もすることになったのです。工学部では理論計算をし、農学部ではテラヘルツ光の研究室に職を得ました。分野が違っても、問題を解くという点では共通なので勉強になりました。いろいろな知識を得られましたし、分野によって異なる戦略があることもわかりました」
 現在の理論計算と実験の両方から迫る高橋さんの研究スタイルは、複数分野の研究室を渡り歩いた強みが生かされているのです。
 「物理に戻ってきたときは、やり残しを片付けたいなと思っていたのですが、研究をしているうちに新たにやりたいことが次々出てきて、まったく収束する兆しがありません(笑)」

宮坂さん(右)と柴山さん(左)

研究室での高橋先生。ここからスーパーコンピューターにつないで研究することも。

文:チーム・パスカル 寒竹 泉美


この記事は、東北大学大学院理学研究科物理学専攻 特任研究員 高橋まさえさんにインタビューして構成しました。