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SPring-8でステンレス結晶相を観測 ~無いと言われていた結晶相の存在が明らかに~

研究成果 · トピックス

SPring-8でステンレス結晶相を観測 ~無いと言われていた結晶相の存在が明らかに~

 ステンレス鋼とは、鉄に11%以上のクロムを含んだサビに強い合金のことで、世界で年間約4000万トンが生産されています。そのステンレス鋼の中でも最も多く利用されているのがSUS304(別名18Cr-8Ni)です。SUS304は機械的性質*1や耐食性に優れていることから、例えばシステムキッチンやエレベーター、自動車、電車の車両、化学プラントやタンクなど、私たちの身近なところで幅広く使われています。
 新日鐵住金ステンレス株式会社の秦野正治さんは、ステンレス鋼の中でも特に 水素 ( すいそ ) 脆化 ( ぜいか ) について研究を続けています。水素脆化とは、水素が金属中に入ることで脆くなってしまう現象で、その金属材料に力がかかると割れてしまうこともあります。
 「世の中が化石燃料から再生可能エネルギーにシフトして、これまで明らかにされてこなかった水素脆化の問題が浮上してきました」と秦野さんは語ります。例えば、燃料電池自動車に充填する水素は、水素ステーション(図1)で高圧に圧縮されますが、車に送り出す際に温度が急上昇します。そのため、ステーションでは水素ガスの温度を-40℃くらいまで低温にしないといけません。そこで、水素タンクや燃料電池車までの配管には、低温に強く水素脆化の起きにくいステンレス鋼(例えばSUS316L)などが使われています。それでも水素脆化が全く起こらない訳ではなく、秦野さんはより安定した安心できる材料を開発するために、「なぜ脆化が起きるのかを解明したい」と考えていました。
 「脆化の原因を探るには、代表的なステンレス鋼であるSUS304の結晶構造の実態を調べることが重要でした。対象は水素で、原子スケールの解析になるため、高エネルギーのX線や電子顕微鏡が必要でした」と秦野さん。そこで、大阪府立大学工学研究科教授の森茂生さんに相談したところ、森さんから精密構造物性や放射光粉末回折法の専門でSPring-8にも詳しい同大学院理学系研究科教授の久保田佳基さんを紹介してもらい、この出会いからステンレス鋼の水素脆化の解明について3人での共同研究が始まったのです。

図1 水素ステーション

図1 水素ステーション

(JHFC の:ホームページより引用)

結晶相の変態にこれまでの常識を覆す仮説

 まず、SUS304の結晶構造について簡単に説明しましょう。SUS304の結晶はγ相と呼ばれる磁性を持たない面心立方構造(fcc)をしています(図2a)。SUS304に常温で引き伸ばすなどの加工を加えると、原子の並びが変わりα’相と呼ばれる強磁性の体心立方構造(bcc)に変化します(図2b)。これを加工誘起マルテンサイト変態と言いますが、これによってSUS304は強度や延性*2が向上するのです。では、どうして水素脆化が起こってしまうのでしょうか?
 久保田さんたちは、「水素脆化の原因は加工誘起変態そのものではない」と考えました。「以前からε相(図2c)と呼ばれる水素に弱い結晶構造があるとの研究報告がありました。そこで、私たちはγ相からα’相への変態のプロセスでε相が生成され、それが水素脆化の原因になっているのではないかと仮説を立て、それを実証しようと考えたのです」と久保田さんは説明します。
 これまでもγ相からα’相への変態の中間相にε相があるという報告はありました。しかし、それは液体窒素を用いた低温領域で行われた実験結果に多く、試料も加工による歪みが少ない薄膜でした。一方、久保田さんたちの研究では、実用条件に近い室温で、実用材料であるSUS304試料を大きく引き伸ばした状態で観察するため、従来の実験とは条件が異なるものでした。
「これまでSUS304は、室温でε相が出現した報告も見当たらず、ε相は出現しないと有名な論文にも考察されています」と秦野さん。つまり、久保田さんたちの研究はこれまでの常識を覆そうとするものだったのです。

図2 SUS304 の結晶構造の変化

図2 SUS304 の結晶構造の変化

力が加わると母相のγ相( 面心立方構造) からε相( 六方最密構造) を介してα’相( 体心立方構造) に変態する。

X線回折実験とローレンツ透過型電子顕微鏡の双方で

 金属の結晶構造の観察には、X線回折法*3がよく用いられます。これは結晶構造に一定の波長を持つX線を入射する方法で、各原子が持つ電子が散乱したX線が干渉し合って生じる回折X線から、結晶内部の原子や分子の周期や配置、サイズ、歪みなどが測定できるのです。特にSPring-8のX線は、非常に高エネルギーで輝度が高いため、試料を透過して内部の構造やε相のような微量な結晶を観測するのに適しています。
 そこで久保田さんたちは、X線回折実験ができ、さらに試料に対するX線の入射角や回折X線の検出角度の制御の自由が効く多軸回折計を備え、試料引張実験が可能なSPring-8のビームラインBL02B1*4において実験をしました。
 試料片に予歪*5を与え、試料負荷装置に設置し、X線を入射したところ、図3左に示すようにγ相と同時にα’相とε相が観測され、10%、20%、30%…と予歪量を増やすにつれてε相のピークの面積も増加しましたが、40%では減少し50%ではほとんど見られなくなりました。このことから、試料を30%引き伸ばしたころから、ε相はα’相に変態し始めていることが分かります。
 次にγ相からε相を介してα’相に変態していく過程を観察するため、予歪がない試料を少しずつ引っ張る「その場観察」を行いました。このときも、やはり試料が伸びるごとにε相が増えていき、遅れてα’が現れる様子がはっきりと観測できたのです(図3右)。
 さらに久保田さんたちは、「これだけでは水素脆化のメカニズムを知るには不十分」と考えました。ε相やα’相が試料中の“どこにどのように”生成されるのかを電子顕微鏡で観察しなければ、水素脆化の問題を解明できたことになりません。そこで使用したのが試料における磁区*6構造が分かるローレンツ透過型電子顕微鏡です。「α’相が強磁性体であることに着目しました。
ローレンツ透過型電子顕微鏡を使えば、非磁性体のγ相やε相との境界を観測できるのです」と久保田さん。通常の透過電子顕微鏡では、対物レンズの磁場の中に試料を置くため、試料が単一の磁区になってしまいます。対してローレンツ透過型顕微鏡では隣り合う磁区との間にコントラストができ、相の境界が分かるのです。この実験においても図4のように、γ相の配列に乱れがある欠陥部分にα’相ができていることが分かりました。今回のX線引っ張りその場観察により、20%の予歪で2%程度のε相の存在が確認され、さらに透過型顕微鏡像で観測したところ、“ABCABC…”の順に並ぶγ相を特徴づける原子の積層した配列が観察できました。さらにそこを拡大して詳しく調べたところ、構造の異なる2つの結晶の境界(双晶界面)に、ABAB…と並ぶ原子の配列も混在していることが見えました。この配列はε相の六方最密構造特有のものです。つまり、久保田さんたちの予測通り、ここにε相の存在が明らかになったのです(図5)。「私はステンレスの実験では今回初めて原子レベルまで見ましたが、水素脆化の研究には必要ですね」と秦野さん。
 こうしてSPring-8での実験によって、これまで無いとされていた、室温におけるSUS304の中間相、水素に弱いε相の出現が明らかになったのです。

図3 SUS304 のX線回折プロファイルの観測

図3 SUS304 のX線回折プロファイルの観測

(左)予歪を与えた試料の観測。(右)無歪試料を引っ張りながらのその場観測。

図4 SUS304

図4 SUS304

破断試料のローレンツTEM 像α’の区域(白と黒の細い線が観測される)に磁性が生じた状態となっている。

図5

図5 ( 左)ε相の存在を示す高分解能 TEM 像(予歪 20% 試料)とε相の生成過程の概念図(右)

太線(双晶)から右の領域が“ABAB”と並ぶことにより、ε相として確認できた。

新しいステンレス鋼の開発を目指す

 近年、水素エネルギーにスポットがあてられる中、水素脆化に強いステンレス鋼のニーズはますます高まっています。「新しい材料の開発のためにも、世の中にステンレス鋼の安全性を理解してもらいたいですね」と秦野さん。SPring-8のような最新設備での実験データは信頼性が高く、周囲が納得してくれると言います。
 SPring-8における久保田さんや秦野さんたちの研究によって、水素脆化に強いステンレス鋼の研究開発や新しい材料の使い方の提案が可能になり、今後の利用における発展が期待されます。


用語解説   line
 

*1 機械的性質
硬さや耐変形・耐熱・耐摩擦・耐疲労の強さなどの性質。

*2 延性
物体が、破壊されずに引きのばされる性質。

*3 X線回折法
結晶の分子構造や配列を得る方法。詳細はこちらを参照ください。

*4 BL02B1
単結晶のX線回折実験を行うステーション。大型湾曲IPカメラ、CCDカメラ及び多軸回折計が設置され、高い精度のデータ収集ができる。

*5 予歪
あらかじめ試料を引っ張って伸ばし解放すること。

*6 磁区
磁石化して極の向きがそろっている領域。磁石の中では、磁区が立体的な組み合わせで存在し、隣り合う磁区の磁化は反対方向を向いている。



コラム

 日本の強みである水素エネルギーなどの分野に“どれだけ鋼材を使えるか”は企業の生命線です。「国を挙げて水素エネルギーが推進されるなか、精度の高い研究や実験、より優れた設計や提案が求められています。水素脆化を探るためには、原子レベルの解析が必要ですね」と秦野さんは語ります。久保田さんはそれを受けて「SPring-8を利用することで、今まで分からなかったことを知り、できなかったことが可能になります。SPring-8のことをまだ知らない方や、どうしたら利用できるのかを知らない方も多いですし、コーディネータ役は重要です。
 どんどんSPring-8の素晴らしさをPRしていくことも私の使命だと思っています」と想いを語りました。SPring-8について詳しいからこそ、よりSPring-8を必要とする人へ利用を広める久保田さんたちの活躍が期待されます。

研究用のポリエステル繊維の束を持つ大越さん

ステンレス構造の模型を持つ秦野さん(左)と久保田さん(右)

文:ダリコーポレーション 大内 佳陽


この記事は、大阪府立大学 大学院理学系研究科 久保田 佳基 教授と
新日鐵住金ステンレス株式会社 研究センター 秦野 正治 上席研究員にインタビューして構成しました。