SPring-8 NEWS 特別号(2020.9月)
目次 研究成果 · トピックス 実験技術紹介 利用者のみなさまへ SPring-8で学ぶ学生たち |
SPring-8で新型コロナウイルスと闘う
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が始まって以来、SPring-8ではこのウイルス(SARSCoV-2)に関連した研究が始まっています(コラムを参照)。これらの研究はまだ始まったばかりですが、類似のウイルスに関する研究の歴史は長く、SPring-8を利用した実験から多くの発見がなされてきました。そのほとんどは、タンパク質を結晶にして原子レベルで構造を調べるX線結晶構造解析という方法で行われています。この方法を使うことで、ウイルスのタンパク質の機能を詳しく調べることができます。ここでは新型コロナウイルスの細胞への感染と複製の仕組みについて順番に説明するとともに、それに関連したこれまでのウイルス研究の成果をご紹介します。
新型コロナウイルスの細胞への感染と複製について図1に示します。コロナウイルスはもともと風邪の原因となるウイルスの一つで、普通は感染しても症状は軽いのですが、2002年ごろに変異してSARS(重症急性呼吸器症候群)と呼ばれる深刻な病気が広がりました。今回の新型コロナウイルスは、このSARSコロナウイルス(SARS-CoV)と類似のウイルスです。コロナウイルスやインフルエンザウイルスなど風邪の症状を引き起こすウイルスの多くは、ヒトに感染する時には鼻や喉の粘膜の表面の細胞に入り込みます。コロナウイルスの名前は電子顕微鏡で太陽のコロナのようにウイルスの周囲に突起が見えるからですが、コロナウイルスが細胞に侵入する時に、この突起を作っている「スパイク」と呼ばれるタンパク質が、細胞表面のACE2と呼ばれるタンパク質と結合することが知られています(図1)。多くの種類のウイルスが細胞に侵入するときにこの方法を用いており、類似の現象がSPring-8を使って調べられています。2011年に九州大学の柳雄介教授のグループはSPring-8を使って、麻疹(はしか)のウイルスが細胞に侵入する際に細胞の表面に存在するタンパク質と結合している様子を、これらのタンパク質が結合した状態の結晶構造解析を行って解明しました(図2)。この構造から、麻疹ウイルスがどのように細胞の細胞膜に溶け込んで細胞に侵入するのかが分かってきました。また、麻疹の予防にはワクチン接種が有効です。ワクチンは体の免疫反応を引き起こし、麻疹ウイルスの表面にあるタンパク質の特定部位と結合する抗体*1を作り出します。この結晶構造解析から、麻疹ウイルスのタンパク質のどこに結合する抗体が細胞への侵入を防ぐのに一番効果的なのかもわかりました。これは麻疹のワクチンを作る時のヒントになるだけでなく、新型コロナウイルスでも同じようにヒントになります。スパイクタンパク質のどこに結合する抗体が一番効果的か、この麻疹ウイルスの研究を参考に、世界中で新型コロナウイルスのワクチン作りが進んでいます。
図1 新型コロナウイルスの細胞への感染と複製
新型コロナウイルスは、まず細胞表面のACE2というタンパク質を利用して細胞に侵入します。次に自身のタンパク質を細胞の複製装置(リボソーム)を利用して複製し、RNAを自前のポリメラーゼで複製して自分のコピーをたくさん作り出します。最後に増殖したウイルスが細胞外に放出され、それらが別の細胞に入り込んでさらに増殖します
麻疹ウイルスはヒトに感染する時には、免疫系細胞の細胞膜上に存在するSL AMと呼ばれるタンパク質と結合して、細胞に入り込みます。この機能を担っているのは、麻疹ウイルスのHタンパク質です。Hタンパク質とSLAMの結合によってウイルスと細胞の間の距離は非常に近くなり(約140 Å)、ウイルスが細胞に入り込むのに必要な環境を形成しているものと思われます。
また、Hタンパク質上でSLAMと結合している領域、すなわちウイルスが細胞に感染するために重要な領域の周辺が、麻疹のワクチンによって作られる抗体の標的になっていることが分かりました。麻疹ウイルスは、この抗体が結合できないように変異すると、細胞に感染できなくなり生存できなくなってしまいます。これが麻疹のワクチンが非常に有効な理由であると考えられます。これに対して、例えばインフルエンザワクチンで作られる抗体は、ウイルス表面のタンパク質の、細胞侵入に使われるのとは異なる部位に結合することが多く、ウイルスはこの部分を変異させることで、細胞に侵入する能力を保ったまま抗体から逃れることができます。その時には、変異した部分を含む新たなワクチンを使用する必要があります。これがインフルエンザワクチンをその時流行しているウイルスの型に合わせて変えなければならない理由です。新型コロナウイルスでも、スパイクタンパク質のACE2と結合する部位に対する抗体を誘導するワクチンが作れれば、非常に有効と思われます。
図2 麻疹Hタンパク質とSLAMの複合体の構造
細胞に侵入したウイルスは、自分を複製しなければなりません。新型コロナウイルスは表面にあるスパイクタンパク質など20以上のタンパク質の遺伝子を持っており、ウイルスが自己複製するにはこれらのタンパク質が必要です。ウイルスは自分自身でタンパク質を作ることはできず、細胞の持っているタンパク質合成装置を使います。コロナウイルスが持っているRNAにはタンパク質に関する情報が含まれており、これを細胞のタンパク質合成装置に遺伝情報(メッセンジャーRNA)として読ませます。この時、タンパク質生産の効率を上げるためなのか、複数のタンパク質が一度に繋がって作られます。これを切り分けて別々のタンパク質にしているのは、その繋がったタンパク質の一部分であるタンパク質分解酵素です(図1)。SARSコロナウイルスのタンパク質分解酵素の働きを、2016年に理化学研究所の横山茂之上席研究員(当時)のグループがSPring-8を用いた結晶構造解析によって明らかにしました(図3)。この酵素は分解する相手のタンパク質の構造(アミノ酸配列)を特殊な方法で認識しており、この認識機構は生体内の他のタンパク質分解酵素では一般的ではありません。そのため、この特殊な認識機構を邪魔する阻害剤を開発すれば、特異的で副作用の少ない薬の開発につながると期待できます。これは新型コロナウイルスでも同じで、すでにいくつかの薬剤候補が報告されています。
図3 SARSコロナウイルスの3CLプロテアーゼの構造析
コロナウイルスのタンパク質分解酵素(メインプロテアーゼ、別名3CLプロテアーゼ)は、自分自身と繋がったタンパク質の間の限られた部分(限られたアミノ酸配列)だけを切断する必要があります。X線結晶構造解析により、メインプロテアーゼが、切断するべき部分を特殊な方法で認識していることがわかりました。
さらにコロナウイルスが自分自身の複製をたくさん作るには、自分のRN Aを複製しなければなりません。これはタンパク質分解酵素で切り出された「RNA依存性RNAポリメラーゼ」という酵素が行います(図1)。この酵素はRNAを遺伝子として持つウイルスの多くが持っているもので、ヒトインフルエンザウイルスのRNA依存性RNAポリメラーゼは、2008年にSPring-8を用いて横浜市立大学の朴三用准教授(当時)のグループによって世界で初めて構造解析されました(図4)。この酵素の働きを止めるインフルエンザ治療薬としてアビガンが開発されました。アビガンはこの酵素がRNAをコピーする時にRNAの材料のふりをして入り込んで、コピーを止めてしまいます。そのためインフルエンザウイルスは、自分のRNAを作り出すことができず増殖が阻止され、症状が改善します。アビガンは新型コロナウイルス治療薬候補として話題になりましたので、この構造解析の結果は新型コロナウイルス治療薬の開発に現在大きな意味を持っています。
このようにいろいろなウイルスでタンパク質の構造や機能が明らかにされてきました。ウイルスの感染と増殖は決して単純ではなく、多くの過程を含んでいます。その過程のどこか一つでも進まないと、ウイルスは増殖して病気を引き起こすことができません。どこを邪魔するのが効率的か、それにはどのような薬剤が良いのか、どのような抗体が効率的かなど、未知の部分はたくさんあり、世界中で研究が進められています。スーパーコンピュータを使ったインシリコ薬剤スクリーニング*2にも、SPring-8を用いたX線結晶構造解析で得られた基礎的なデータが必須です。新型コロナウイルスの予防法・治療法が報告される日も近いでしょう。
図4 インフルエンザウイルスのRNA依存性RNAポリメラーゼの構造
「RNA依存性RNAポリメラーゼ」とは、RNAを鋳型としてそれに合うRNAを合成する酵素のことです。この酵素は3つの部分(サブユニット)から成っており、PAサブユニットとPBサブユニットは一緒になってRNAの複製を行いますが、本研究はこれらのサブユニット間の強固な結合を明らかにしました。
*1 抗体
抗体とは、免疫グロブリンというタンパク質で、体内にウイルスや細菌などの異物が侵入すると、白血球の一種であるB細胞によって作られます。ヒトの抗体は表紙の絵にある刺股のようなY字の形をしており、2つに別れた部分でウイルスや細菌の特定のタンパク質の特定の場所に結合します。抗体に結合されたタンパク質は機能が損なわれるため、ウイルスや細菌が活動できなくなり、結果として感染を止めることができます。抗体は細胞の中には入れないため、主に細胞外で働くタンパク質に有効です。
*2 インシリコ薬剤スクリーニング
コンピュータを使ってさまざまな化学物質がタンパク質に結合するかどうかを調べ、新たな薬剤を探す手法です。結晶構造解析でタンパク質の構造が知られている場合に用いられますが、化学物質はいろいろな形でタンパク質に結合する可能性があるため、多くの化学物質について調べるには、理化学研究所の富岳などのスーパーコンピュータが用いられます。
本文にて紹介されている研究事例は以下に詳細があります。
● 受容体と結合した麻疹ウイルスの構造を世界で初めて解明―抗ウイルス薬の開発やウイルスの細胞侵入機構の解明につながる―
(SPring-8 プレスリリース)
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2011/110110_2/
● SARSウイルスの巧みな戦略―プロテアーゼの特殊な基質認識―
(理化学研究所 プレスリリース)
https://www.riken.jp/press/2016/20161122_1/index.html
● インフルエンザウイルスのRNAポリメラーゼの構造を解明!―新型インフルエンザウイルスに対する新規薬剤設計が可能に―
(SPring-8 プレスリリース)
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2008/080728-2/
(関連することがSPring-8 Newsにも掲載されています:インフルエンザの新薬目指して)
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_44/
SPring-8/SACLA における新型コロナウイルス感染症関連の研究について
新型コロナウイルスの流行が始まって以来、SPring-8では新型コロナウイルス感染症関連の研究を重点的に押し進めています。SPring-8では通常は年に2回の課題募集があり、利用するにはその時に申し込む必要があります。しかし新型コロナウイルスに関する研究は緊急を要するため、緊急課題や成果専有時期指定課題などいつでも申し込める課題制度を活用してタンパク質結晶構造解析などの課題を随時受け入れて実施しています。研究は急ピッチで進んでいますので、近日中に成果報告があるものと期待できます。
文:高輝度光科学研究センター 利用推進部 普及情報課
この記事はSPring-8に関する過去のプレスリリースを基に再構成しました。
SPring-8のタンパク質結晶構造解析ビームライン
タンパク質結晶構造解析ビームライン(BL26B1、BL26B2、BL32XU、BL41XUおよびBL45XU)では、ユーザーからの高効率化の要望にこたえて、回折実験における自動化の開発を進めてきました。その結果これまでに光学系の調整、凍結保存された試料の交換、試料へのX線照射位置の調整などに必要なハードウェアを整備し、回折実験を行うための機器制御が人手を介さずに可能となりました(図)。これらの技術を用いて、BL32XUにおいて開発された統合自動測定ソフトウェアZOO[1,2]は、試料交換、試料のセンタリング、放射線損傷を回避した回折測定などをすべて自動で行うことを可能にしました。
図:BL45XUの自動測定用回折計
(A)試料をX線照射位置に調整するゴニオメータ、(B)大型ピクセルアレイ検出器PILATUS3 6M、(C)凍結試料の温度を100 Kに維持する低温窒素ガス吹き付け装置および (D)凍結試料を自動で交換する試料交換ロボット、赤矢印:X線入射方向
BL45XUでは、これらの機器制御のシステムを導入し、5.7 × 1012 〜 1.7 × 1013 photons/s@1 Å の高強度ビームを用いた効率的な自動測定を2019年A期より運用しており、利用が増加しています(表)。膜タンパク質を含む数µmから数100 µmまでの様々な大きさの凍結結晶を対象試料として、試料の大きさや形状に合わせた複雑なデータ収集を、ビームサイズを5(H) × 5(V) 〜 5 0(H) × 5 0(V) µm2 の範囲で切り替えて自動で行うことが可能となっています。(参照:http://bioxtal.spring8.or.jp/wiki/ja/auto_measurement)
表:タンパク質結晶構造解析ビームラインにおいて、自動測定にて実施された課題数(2019A〜2020A)。2020A期は4月から7月までの数値で、4月中旬から6月中旬までのユーザー実験休止期間を含む。
ユーザーは凍結試料、サンプル情報や測定条件をSPring-8に送付すれば、来所しなくても自動測定が実施されます。測定後には、試料と共に測定データと自動データ処理結果が送り返されてきます。来所不要なため、新型コロナウイルス感染症の影響で来所が困難な時期にも、海外ユーザーから送られてきた結晶を含めて多くのタンパク質結晶のデータを収集し、研究を進めることができました。また、新型コロナウイルス感染症関連の研究も、緊急課題として受け入れ、速やかに実施しています。
[1] K. Hirata, et. al. , Acta Cryst. D (2019) 75, 138-150. doi:10.1107/S2059798318017795
[2] K. Yamashita, et. al. , Acta Cryst. D (2018) 74, 441-449. doi:10.1107/S2059798318004576
SPring-8の利用事例や相談窓口
第16回:神戸大学大学院 任さん
今回は神戸大学大学院医学研究科附属感染症センター臨床ウイルス学研究室 博士課程3年の、任(Ren)さんです。
Q.大学での研究について教えてください。
A.乳幼児に感染し発熱と発疹を引き起こすヘルペスウイルス6のIE2というタンパク質を研究しています。これはこのウイルスが細胞に入って最初に合成されるタンパク質の一つで、ウイルスの遺伝子の複製を助ける働きをします。IE2の構造未知の部分を結晶化して、SPring-8の放射光などを利用し、X線結晶構造解析を行う研究を、研究室の森康子先生、西村光広先生と進めています。
Q.なぜ理系の道に進み、“臨床ウイルス学”を研究することになったのですか?
A.日常生活で出会ういろいろな事象の仕組みを知りたくて、子供のころから科学には興味があり、科学を学ぶことは自分の人生の“秘密”を解き明かすことと考えていました。高校では化学がもっとも好きな教科でしたが、人の健康に役立つことをしたいと思うようになり、薬学を選択しました。中国薬科大学の学生だった時に、抗ウイルス薬やワクチンに興味を持ち、調べていくうちに神戸大学の森教授のことを知りました。そこで、森教授の研究室に加わりました。
Q.構造生物学はウイルスを克服するのになぜ有効なのですか?
A.ウイルス研究では構造生物学は非常に大切です。例えばウイルスが細胞に入り込む仕組みは現在重要な研究対象となっていますが、タンパク質の構造からその分子がどのように働くかがわかり、侵入の仕掛けを知ることができます。
Q.SPring-8についての印象は?
A.SPring-8は世界の研究者にとって非常に役に立つ施設だと思います。SPring-8へ行くと、世界中の学生や教授にたくさん出会えます。スタッフはとても経験豊富で、私の実験を手伝ってくれています。
任さんは中華人民共和国山東省煙台という海を臨む町の出身です。煙台は、夏は涼しく冬は暖かい、とても気候の良いところだそうで、果物が豊富で、新鮮な海産物にも恵まれ、夏には避暑の人たちが大勢来るそうです。研究に行き詰まった時などの任さんの気晴らしは家族と電話、友達と食事、そして趣味の釣りだそうです。特に秋や冬に友達と行く釣りはとても楽しく、リフレッシュできるそうです。もしかしたら故郷の海を想いながら釣りをしてリフレッシュできているかもしれませんね。今後任さんの様な若い研究者がSPring-8などを活用して、さらにウイルス研究を進めてくれることでしょう。
SPring-8のタンパク質結晶構造解析ビームライン
今回紹介したコロナウイルスに関係する研究などは、主にSPring-8のタンパク質結晶構造解析ビームラインが活用されています。
詳細スペックや課題の申し込みなどについては、SPring-8 UIサイト(https://user.spring8.or.jp)を参照ください。